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【アフリカ大陸縦断029】ルワンダ入国、80万人以上が殺されたジェノサイドとは(@キガリ/ルワンダ)

憎しみを消化し、発展に向うルワンダの人々

宿を出ようとしていたとき、
ボダボダの運転手がこちらを見てアゴをくいっと前に出した。
それに頷くと、バイクを停めてくれ、そのままジャグア社のバスターミナルに
連れて行ってもらった(2,000Usr)。
ターミナル内にはすでにバスが停まっていた。
荷物を預け、チケットを見せると、バスに乗り込んだ。
ウガンダの首都カンパラとルワンダの首都キガリを結ぶバスは
実にスマートだった。
雑多に慌ただしい喧騒はここにはない。

バスは定刻通りの9時に出発。
乗客も落ち着いた人ばかりだ。
しばらくすると、なんとWi-Fiのパスワードが配られた。
充電もでき、街中に入るとなかなかいい具合にネットが繋がった。

17時前、ルワンダとの国境に到着。
バスを降りると、まずはウガンダ側のイミグレーションへ。
出国カードを書いて、問題なくスタンプをゲット。
両替商に、残りの4,000Usrを500Rwsに替えてもらった。
その価値約半分になったが少額なのでよしとする。

ウガンダ側イミグレーション

ウガンダ側イミグレーション

それから少し離れたルワンダ側のイミグレーションに行く。
長い列に並んでいる間、ふとポスターに目がついた。
ルワンダ虐殺当時の首謀者の情報を求めるもので、
多額の懸賞金がかけられていた。
ルワンダ虐殺とは、1994年に起きたジェノサイドのこと。
ジェノサイドとは、1つの人種・民族・国家・宗教などの
構成員に対する抹消行為を指す。
ルワンダ虐殺では、たった100日間で80万人以上の人が殺された。
それも、庶民が庶民を殺すという非情さ。
私は、このルワンダ虐殺の実話を元にした映画「ホテル・ルワンダ」を見て、
ルワンダに来ようと思ったのだ。
ルワンダでは、ルワンダ虐殺に関する場所にいろいろと行くつもりだ。

長い列の先でようやく窓口にたどり着くと、
たくさんの国のスタンプがある私のパスポートを見て、
係の職員に質問攻めにあった。
それから、上の人に相談に行ったのか、別室へ入って行った。
結局は、三ヶ国(ケニア・ウガンダ・ルワンダ共通)ビザもあるわけで、
ちゃんと出国スタンプをもらえたのだが。
税関では、バッグの中のありとあらゆるものを
全部テーブルの上に並べさせられ、ビニル袋が回収された。
ルワンダは、環境美化のためビニル袋の持ち込みを禁止しているのだ。
そして、ようやくバスに戻ると、再出発。
パスポートを出し、総渡航国60ヶ国目のスタンプを、じっくりと眺めた。

iPhoneの時刻をキガリ基準になるよう読み込ませた。
ウガンダとルワンダは1時間の時差がある。
キガリに到着したのは、18時半頃のこと。
首都の夜なのに暗くて、
隣の席の男に着いたと教えてもらうまで気付かなかった。
バスターミナルを出て少し迷いながらもお目当ての宿に着いた。

バスターミナルとホテル周辺

バスターミナルとホテル周辺

それから、お金がなかったので、両替しに出かけた。
バスターミナルの中の両替所で両替することができた。
小額紙幣だったのもあってものすごくレートが悪かった(1ドル=700Rws)。
そのまま何か食べられる場所はないかと探す。
キョロキョロしながら歩いていると、
ストリートチルドレンがやって来てお金をくれと言われた。
ターミナルの前の大通りを挟んだ向かいの建物の中に、軽食屋をみつけ入った。
プレート料理を食べた。
ふと外のテーブルを見ると、
残り物をストリートチルドレンにあげているおじさんがいた。
子どもは、地面に座ってそれを食べた。

翌朝宿を出ると、ホテルと同じ建物の中にある両替所で両替をした。
なかなかレートがよかった(1ドル=753Rws。新市街より良い)。
それから、バスターミナルのある交差点に行き、
ボダボダに乗って丘の上の新市街に向かった(500Rws)。

ニャブゴゴバスターミナル前

ニャブゴゴバスターミナル前

キガリシティータワーという高層ビルの前で降ろしてもらった。
とりあえず朝食をと思い、キガリシティータワーの前の
ファンタスティック・レストランという名前のレストランに入った。
サモサとジュースで朝食。

新市街の街並み。左がキガリシティータワー

新市街の街並み。左がキガリシティータワー

そして、新市街を歩く。
新市街はなかなか整然としてきれいな町並みだった。
近代的なビルもいくつかある。
ビジネスマンはビシッとしたスーツを着、
ビジネスウーマンは洗練されたオフィス用のスタイルで街を闊歩する。
ゴミがないのは、やはりいい。
それだけで、経済が発展しているのを感じる。
ビニル袋のゴミってずっと残ってものすごく目障りだから、
ビニル袋持ち込み禁止の政策は間違っていないと思った。

新市街のビル

新市街のビル

新市街のちょうど中心あたり

新市街のちょうど中心あたり

ルワンダはジェノサイドで、経済的に壊滅的な大打撃を受けたが、
その後大規模な国際支援を受け、安定した経済成長を遂げている。
欧米に逃れていた難民が、技術と資金を携え帰国し、
経済発展に寄与するようになると、ますます発展を遂げた。
「アフリカの奇跡」と呼ばれているくらいだ。
治安も安定していて、東アフリカで最も一般犯罪の少ない国らしい。

ウガンダもルワンダもゴリラを見に行くツアーがある

交差点のサークルにあったゴリラのオブジェ。ウガンダもルワンダもゴリラを見に行くツアーが有名

しばらく歩くと、「ホテル・ミル・コリンズ(Hotel Des Mille Colins)」
に向かった。
少し迷ったが新市街の中心にあるので、そんなに歩きはしなかった。
四つ星ホテルながらに、やはりセキュリティもしっかりしていて、
入るときは金属探知機のゲートをくぐらされる。
ここ、実は映画「ホテル・ルワンダ」の舞台になった場所。
現在も名前を変えて営業中なのだ。

ホテル・ミル・コリンズ

ホテル・ミル・コリンズ

ホテル・ルワンダのホテルマンだったポール・ルセサバギナは、
ジェノサイドが起こったとき、
1200名以上の難民をこのホテルに匿って虐殺から守ったのだ。
自分の立場が守れる多くの人の命と、
それによって危険に晒される守るべき家族。
葛藤し、決断をする彼の複雑すぎる心境を思うとものすごく切ない映画だった。

ロビーから、中庭にあるプールが見えた。
その下がバーになっているようだったので行ってみる。
ビールを注文し、プールサイドで飲んだ。
映画の中で、難民たちが生き延びるために
このプールの水を飲むというシーンがあった。
優雅なプールサイドには、そんな歴史を感じさせるものは一切ない。
映画で使われたホテルもここではない。
だけど、実際このホテルで本当に起きたことなのだ。
映画を見たときは、遠い異国の地の出来事として、
どうしても自分とは関係ないことと無意識に感じてしまう自分がいたけど、
こうしてその地にやって来て、ここに逃げて来た人は
どんな気持ちでいたのだろうと想像すると、
リアルにその出来事を感じることができる。

ホテル・ミル・コリンズのプールサイド

ホテル・ミル・コリンズのプールサイド

ホテルを出ると、朝行ったファンタスティック・レストランで昼食にした。
この時間、ここに来る人はみんなビュッフェが目的らしい。
私もビュッフェに並んだ。
いろんな種類の料理が並び、どれもなかなか美味しそうで、
あれもこれもと取っているうちに、プレートの上はカオスになった。
こんなに食べられるのかと思ったけど、完食。
本日2本目のビールも飲む。
さっきはスコールというビールを飲んだので、
今回はムチグというビールにした。
どちらもルワンダでポピュラーなビールだ。
330mlという大きさもちょうどいい。

ビュッフェのカオスな盛り

ビュッフェのカオスな盛り

昼食の後は、キガリ・シティー・タワーの隣からボダボダに乗って、
「キガリ虐殺記念館(Kigali Genoside Memorial Centre)」に
行った(500Rws)。
建物内には、どういう経緯でジェノサイドが起きたのかということが、
わかりやすくパネル展示されている。

展示は、ベルギー人将校がやって来て、
当時の王と握手を交わしている写真から始まる。
すべてはここからなのだ。

キガリ虐殺記念館(Kigali Genoside Memorial Centre)

キガリ虐殺記念館(Kigali Genoside Memorial Centre)

そもそもヨーロッパ勢力がアフリカにやって来るまでは、
農耕民族フツ族と遊牧民族ツチ族は共存し、ルワンダ王国が形成されていた。
その頃は民族意識も曖昧だったそう。
始めにこの地域を領有したのは、ドイツ。
その後ベルギーが引き継いだ。
ベルギーは、彼らにIDという文化を定着させた。
そして、彼らに自分がどの民族なのかと意識させたのだ。
ベルギーは、植民地統治の手段としてツチ族を優遇し、
2つの民族の差異が強調されるようになった。
それが対立に発展してしまったのだ。

ルワンダ紛争時の1994年、当時の大統領が暗殺された日から、
ジェノサイドは始まる。
「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。
我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない」
という主張のフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーが発生。
そして多数民族であったフツ族によって、支配階級であったツチ族と
そのツチ族に対して温和な政策を取ろうとする穏健派フツ族が殺害された。
そして、たった100日で80万人以上が殺されてしまうという悲劇に至ったのだ。

殺害された人々の写真や骨、彼らが身につけていた衣類が展示されていて、
そこにいた人をリアルに想像させられた。
所々に展示されたインタビュー動画で、当時の話をする人々があまりに
普通に見えて、自分の生きた時代に起きたことなのだと実感させられる。
それまでずっと気にかけていた隣人の男の子に、
旦那が殺されてしまった、と語る女性。
自分以外の家族全員を殺されたという男性。
死んでいるお母さんの側でまだ息のあった赤ちゃんを
見殺しにしてしまった、と話す女性。
使われた銃や鉈なども展示されていた。
殺された遺体や、大きな傷のある子どもの写真など、
見るのも辛い展示に涙を堪えるので必死だった。

キガリ虐殺記念館

キガリ虐殺記念館。多くの外国人がその歴史を知るためここを訪れている

人間というのは、こうも残酷になれるものなのかと、気分が重くなった。
領土拡大を図る欧米が起こした対戦も、自分の祖父母が経験した時代のこと。
ジェノサイドの孤児は、まだ20代。
人を支配したいという心理、
人を殺すべきだという群衆心理に逆らえないのかもしれない弱い心、
それらはもしかしたら私の中にもあって、
環境の変化で引き出されるのかもしれないと思うと恐ろしかった。

2階には、世界で起きたジェノサイドについての展示があった。
19世紀末から20世紀初頭に起きた、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺。
20世紀最初に起きた、旧ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)にて
ドイツ帝国が先住民族に対して行ったヘレロ・ナマクア虐殺。
第二次世界大戦中の、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺。
1975年~1979年に起きた、カンボジアのポル・ポト政権による大量虐殺。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に起きたスレブレニツァの虐殺。

展示の最後のコーナーは、子どもたちと題されていた。
そこには、ルワンダ虐殺のあった当時子どもだった彼らの
その後の心境の変化が、インタビューで紹介されていた。
憎しみや復讐の気持ちを持たない方がおかしい
というくらいの体験をした子どもたちばかりのはずだ。
しかし、ルワンダの人々は憎しみをきちんと消化し、ルワンダ一体で
明るい未来を築いていこうという強い意志を持っているように感じた。
ホテル・ミル・コリンズの駐車場にあった記念碑に刻まれた言葉を思い出した。
「ネバー・アゲイン(2度と繰り返さない)」。

最後に寄付をして記念館を出ると(入場料の代わりに寄付箱が置かれている)、
ボダボダに乗って宿に戻った。
そこにいるルワンダ人がジェノサイドを経験したかと思うと、切なかった。
ちなみに現在は、ツチ族、フツ族の呼称は公には廃止され、
融合政策が進んでいる。

キガリの宿:HOPE GUEST HOUSE

【住所】Boulevard de Nyabugogo, Nyabugogo, Kigali
【料金】7,000Rwf(シングル、トイレ・シャワー共同 ※南京虫注意)
【設備】蚊帳
【評価】★★★☆☆

移動:カンパラ→キガリ

JAGUAR社のバスで10時間。515km。45,000Usr。
カンパラ→キガリ

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